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2013年5月22日水曜日

おさらいの百名山 その4『甲武信ヶ岳(2,468m)』

 
 百名山とえらそうに言いながら、以前登った山が、例えば「登った山リスト」に記載されているものの、どんな山だったかさっぱり記憶にないという情けない老化現象にさいなまれることがある。
 
今回の山『甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)』も前回も一緒に登った方と再度登ることになったのだが、
「え~っ!覚えてないの!!!!?」と登山口の毛木平駐車場でえらく驚かれた。
ということで、甲州、武州、信州の三つの国の境界にある山なのでこの名前で、信濃川~千曲川の源流のある山だと言うことも同行の仲間たちの会話から聞こえてきて、「そういえば、そんな山あったな・・・・・」とぶつぶつ言いながら歩き出して、しばらくその源流をさかのぼる、その名も「千曲川源流遊歩道」を進む。
時は5月4日、いわゆるゴールデンウイークの後半に入ったところ。
 

 
記録によると3年前にこの山に登っているが、ひょっこり出てきた洪水のための被害者の慰霊碑も全然記憶になかった。

まあいいか・・・とちょこっと芽を出してきたコバイケイソウの姿を眺め、

ナメ滝という滝が出てきたあたりから、だんだん気温が低くなってきて、かいた汗がひんやりとしてくる。

小川の石にはつららが下がっていて、まだまだ、春の風景とは言えない。


そして、遊歩道から川の水の音が消えてきた登りの道は一気に雪の世界。
そんな中、出てきました「千曲川・信濃川水源地」の標識
でも、どこがどこだか全然わからない。
 アイゼンを付けて再び登りへ

 金峰山方面との分岐点あたりで雪が降り出してきて
雪の岩場から頂上へ

風景は何も見えない
早く温かいところへ行こう!と山小屋へ
登山口の毛木平から山小屋まで所要時間約4時間半。
この時の気温が2℃、入り口の木の枝で作った「甲武信小屋」の文字を見てようやく、そういえば前にここ来たな、と実感がわく。
名物?のカレーをじっくり作っている名物社員?のヅメちゃんがそういえばギターの生演奏してくれたな、などと記憶が甦ってくる。
夕食の後、そのヅメちゃん主演の山のガイド番組とオーナー小屋主の徳さん撮影の甲武信岳の花々(もちろんBGMはヅメちゃんのギターの音色)のDVD上映会があり、あれ?ギターの生演奏はないの?とは思ったものの疲れていたのでとっとと寝る。

さすがに夜の小屋も寒かったが、その分翌朝はきれいに晴れ渡りご来光もしっかり拝めた。

遙か遠くの富士山も見える。
昨日は視界ゼロの頂上もこんな風にすっきり。6時半小屋を出発。
登りとは違う十文字峠ルートで下りへ。
雪の林の中を温もりの日差しが射してきて

三宝山で休憩。お~、富士山見えるじゃん!
などとのんびり下っていると、その三宝山でストックを忘れてしまい、取りに帰る。
なさけない!往復15分ほどのロス、同行の方々すいません!
雪に同化しながらじっと静かに待っていたストック君
やがて、「尻岩」なるけったいな巨石が出てきて、尻にぴったりな服を着ているから挟まれてみろと言われて、ご迷惑掛けたお詫びに尻の間に挟まってみる。

いくつかのクサリ場や樹林帯の根がぼこぼこ飛び出した坂を下って、
十文字小屋に到着。
ここまで来るとポカポカ陽気が気持ちよい。
水のない水場とか、しばらくは水源の水は地下に潜ってしまったようだ。
 
いつの間にか、川の流れが出現。
 
下りはのんびり昼食の時間を取ったこともあり、所要時間6時間半。

汗を流しに南牧町の温泉街『海ノ口温泉』へ
といっても残っている温泉宿はこの和泉館だけ。
裏に回るとちょっと温めの源泉が吹き出していて
のどかな田園風景を小梅線のディーゼル車が一両で走っていく。
なかなか良いところだ、とここに泊まることにする。
後ろに見える山は武田信玄初陣の城「海ノ口城趾」の山
その海ノ口城方面から見た八ヶ岳がまた美しい!
いかんな、このきれいな八ヶ岳の風景の方が印象に残って、また甲武信岳を忘れそうだ。

2013年5月14日火曜日

ひねるとジャ~。台湾泥湯温泉








 八田與一の功績を巡る炎天下の自転車こぎから解放されて、汗だくになったところで、ここはひとつ汗流してさっぱりとするために温泉に行くしかない!と自転車屋のおばちゃんにタクシーを呼んでもらい、走ること15分くらいでたどり着いた駅が「隆田」駅。ホームのベンチでは、これぞ田舎の若い者の正しい姿!という感じの若者たちが、ちょっとめかし込んでほぼ全員サンダルがけで、わいわいたむろしていたが、それさえ10人足らずで、時折、生暖かい風が何度か吹き抜けていくと、同じようなスピードの各駅停車の電車がホームに入ってくる。


 

 
ほどよく冷房の効いた電車を3つめの駅「新営」で下りる。
駅前に出ると、なぜか自転車軍団が100人ほど同じユニフォームで集まっていた。

寄ってくる客引きのタクシー運転手に「バス停はどこ?」と聞くと、駅前ロータリーの反対側に、色んな土地へ向けてのバスが発着しているようだが、「青山」とか「三層崎」なんていう地名の看板を見ると、何だか日本の田舎のバス停にのんびり待っているような気分。
豪華な2階建てバスに乗客10人ほど。
一路、関子嶺温泉に向かう。
だんだん、山の方に向かってバスはくねくね登っていき、温泉宿の建物もちらほら出てくる。どこかで見たような風景だなと思ったら、正月の箱根駅伝で出てくるような風景で、温泉街の真ん中にある公園の横のバス停に下ろされる。
今回は台湾のガイドブックで調べて予約した宿で、「マニア向け宿!」と書いてあり、どんなマニアや?と興味津々でその名も「関子嶺大旅社」
なるほどマニア受けしそうだ。「泥奬温泉 百年老店~住宿・休息・泡湯・用餐」と表示がある。


この関子嶺温泉は日本統治時代に、役人が箱根みたいな風景に感動したのか、四大温泉の一つとして開発したところで、ねずみ色の泥の混ざったお湯が特徴。
山のいくつかの場所に源泉があり
 
 
 
 
旅館に入ると、あちこちの部屋からお湯の音と家族で団らんお風呂的な会話が聞こえてくる。
 
部屋のお風呂の温泉蛇口から温泉を出して、お湯を張ってみるとこんな感じに。
これで浴槽の8割くらい入っている状態。
結構熱いお湯の湯船につかると、おしりに泥というか砂というかの感触がしっかり感じられ、その溜まった泥をすくって体のあちこちに付けていく。
窓から気持ちよい風と共に、近所の旅館の風呂に入る子供たちや家族の声が聞こえてくる。
のんびり感一杯である!

お土産にと紙パック入り一つ20台湾ドル(約60円)を買って帰る。
自宅の風呂で試したが、なかなか良い感じ。


2013年5月6日月曜日

徽軫灯籠(ことじとうろう)のあるダム ~台南・烏山頭(うさんとう)ダム

 

 4月28日朝7時半。
日本ではゴールデンウイークなるものの前半が始まり、そこら中で渋滞や人混みができているだろうと思われる日に、南国らしい生ぬるいが澄んだ風が吹き抜ける台湾・台南駅前。

 日に2本しかない嘉南村行きのバスを待っている。
どこぞにコーヒーでも売ってないかと駅舎に入ると、今から何が始まるのかとわくわくするような旅好きの人間が陥る気分、どこでも我が家の始まりみたいな気分、にしばし浸る。

旅の始まりの前夜は、台北から新幹線で1時間半ほどで台南へ到着。

駅弁は牛丼を四角い箱に詰め込んだだけというようなシンプルなものだったが、ご飯に乗っていた煮染めた厚手の揚げが良い味を出していた。

 さて、駅に着けばどうにかなるといういつもの旅の気分で台南の駅に着いたものの、泊まる宿の地図は台南駅からきわめて遠く、更には新幹線の駅と在来線の駅がえらく離れていると言うことも知らずに、雨の駅前の暗闇に放り出された。
とにかくタクシーに乗ればいいやとタクシー運転手にホテルの住所と名前と示し車は走り出したが、目的地になかなか到着せず、前日インターネットで慌てて予約したホテルの名前を改めて見てみると、「荷蘭村汽車旅館」
汽車というと日本語では自動車のことで、その旅館だとモーターホテル、荷蘭というのはオランダ・・・・「なななんだ?オランダ村モーテルか?」
気がついたときには大きな風車のモニュメントの建物の前に着き、各部屋に駐車場のあるうちのシャッターの開いている部屋に行くようフロントのおばちゃんから指示が出た。
もろ、たばこ臭くて、大きなベッドと大きなバスタブがあるその手のホテルで、夜中は隣近所の色んな音が聞こえてよく寝れなかった。

 そんな中で、けだるさを引きずる朝の台南駅。8時50分発の嘉南村経由六甲行きバスは20人乗りのマイクロバスで、時間通りに乗客6人を乗せて出発。

 バスに揺られて2時間ちょっと、太陽はすでに真上に近く、バスから降りると日光がじりじりと射してきた。バスから降りたのは3人で、もしかしたら昨夜から同じコースで動いているのかと思わせる日本人男性が一人いた。
目的の「八田與一記念園区」の表示は目の前に見えるが、その入り口がわからないでうろうろしていると、おばちゃんが一人声を掛けてきた。貸し自転車屋のおばちゃんで、ここは色んな施設があちこちにあり歩いていくと大変だから、自転車使いなさいよ、とかなんとか声を掛けてくれてるようなので、そんじゃ借ります!と一日100台湾ドル(約300円)を払う。

 そうそう、ここに何しに来たかというと、台湾でおそらく一番尊敬されていると言われている(このあたりの表現が微妙なのだが・・・)日本人で、しかも我が金沢出身の八田與一とその奥さんの10年にわたる滞在地。その間、荒れ果てた嘉南平野を豊かな一大農作地に変えた「烏山頭ダム」及び嘉南平野の灌漑水路の設計から完成までを成し遂げた地であるため、郷土の英雄の業績を是非見たかったと言うこと。

 さて、自転車をギ~コギ~コ言わせて受け付けゲートを抜けて、八田與一記念公園受付へ。
駐車場には大型バスが数台停まっていたが、自転車で来る人間はまずいない。
写真にあるバイクは受付のお兄ちゃんのもの。

何だか真新しい建物があり「エアコン完備3D展示館!」なんてのもあったりして、しっかり観光地を目指しているようだ。
 
八田與一夫妻や同行した技師たちの家屋が再現されているが、1920代のその当時に工事作業者をはじめ多くの住人がひとつの町を築き、小学校、娯楽集会場やテニスコートまであったという。
それにしても、平屋だけど日本家屋の良いところを凝縮したような家で、日々の苦労の中の安息の時間を過ごせたのではと感じた。

 誰もいないテニスコートと神社の絵馬がぶら下がった鳥居。
 
 そして、またギ~コギ~コと坂を上り、八田與一の銅像のある公園へ。
いました!
八田技師はよくこのポーズで、ダムで一番高いこの場所から色々構想を練っていたとのこと。
ちなみにこの銅像は、彼の亡くなった1942年直後に製作されたものの、その後の金物の接収により一時行方不明になっていたのだが、戦後まもなく、金属接収で集められていた鉄くずの倉庫から有志が見つけ出してきたものだそうだ。
 
 独自の工法でダムを造り、それは今なお建築土木業界では大きな業績だと絶賛されているだけに、この銅像を詣でる人が多いようだが、私にはこの像のある小さな公園の入り口脇のもう一つのモニュメントの方に心が行ってしまった。金沢という町を象徴する「徽軫灯籠(ことじとうろう)」だ。
欲を言えば小さな池でもほしいところだが、寄贈者である八田技師の出身地の金沢森本ライオンズクラブの方々のここに置いた気持ちはわかる気がする。

 
そして、遙か遠くまで続く烏山頭ダムの風景
上空から見るとまるで珊瑚礁のように見えるとのことで珊瑚湖とも呼ばれているという。
建設当時、工事にも人々の暮らしにも大きく役に立った機関車
 
工事のために殉職した134名のための慰霊碑。
正面には八田技師直筆の慰霊文、そして残りの三面には八田技師の強い要望により、台湾人、日本人の差別無く、無くなった順番で一人一人の名前が刻まれている。

 
 
このダムにより蓄えられた豊かな水で、大きな「親水公園」もあり、あちこちでバーベキューをする家族連れがいた。池には色んな色の蓮の花。
 
この豊かな水は、八田技師のもとに17歳の時に同じ故郷の金沢から嫁ぎ、ほとんどジャングルだったようなこの地で共に生きた奥さんの外代樹(とよき)さんが、フィリピン沖の太平洋上で戦死した夫の死後3年後の終戦に際し、被占領地の日本には帰ろうとせず、この烏山頭の地で、夫が心血を注いだダムの放水口に身を投げた水でもある。
 
八田與一銅像の後ろには、二人の眠る墓が建っている。
 


おさらいの百名山 その3『筑波山(877m)』

 別に馬鹿にしているわけではないけど、筑波山は日本百名山の中で一番低い山。
地図で見ると太平洋鹿島灘からず~と平地が広がっている茨城県にも、ひとつくらい百名山があっても良いかもと思わせる。反対に言えば、回りが平野なので、他に高いところが無く、標高877mがそれ以上に際だって見える。

 4月20日。
GWの山行の足慣らしの意味があり、筑波山ケーブルカーと並行に続くごくオーソドックスな登山道を選ぶが、さすがに人が多い。
筑波山神社の登山口に一番近い土産物屋の駐車場に車を置いて出発、この時点ですでに標高240mだから頂上まで標高差640mということになる。
筑波神社の山門をくぐろうとすると、名物「がまの油売り」の口上の準備中。


 この「観光がまの油隊」は登山口の筑波神社班と頂上のケーブルカー山頂駅前広場班がいるようで、口上公演?の合間の休憩に頂上広場の土産物屋のおじさんと会話しているのを見かけた。
「リアルにやろうと思って、刀で腕に傷を付けて血をちょっと流しているんだが、これが何回もやっていると傷だらけで大変だよ、あはは」と腕をまくって見せていた。
すごい!プロである。
 
筑波山神社で無事を祈っていざ出発。

境内を抜けて1時間ほど登るとケーブルカーとの接近地「中の茶屋跡」
 
さらに30分ほどで男女川源流地点。ちょろちょろと水が出ていたけど、汲んで飲む人は少ないようだ。

 
山の花もちらほら見かけたが、気にしている人が少ない。

 
ケーブルカー山頂駅前広場は人でごった返していたが、
ぽつんとこんな石標が建っていた。
左は男体山、右は女体山
左を選んで頂上へ。

頂上の祠、スポンサーは木村屋総本店。創業者木村安兵衛は茨城県牛久の出身のようだ。
 
ぱらぱらと雪が舞ってきて、向こうに見える女体山。
寒くなってきたしお腹もすいてきたので、土産物屋兼食堂でけんちん汁とビールをすすっていると、
先ほどのがまの油口上師のおじさんと店のオヤジさんの会話が聞こえてきた。
 



2013年4月21日日曜日

相馬から北上して・・・・線路のない踏切

 福島県の相馬と聞くと、どうしても原発から何キロ圏内で、住民は避難生活を余儀なくされている「南相馬」を思い浮かべてしまい、画像として甦ってくるのは、人影もなく、商店の看板は風雪で形を崩し、時折吹く風でブルーシートがはためく・・・
 実際には、人の姿もだんだん増えてきてはいるようで、南相馬市の一部の企業は操業を再開していて、ただそれでも「住む」ことは許されてはいなくて、夜は暗闇が広がるようだ。

 
 
 その北にあり、ラーメン屋もドラッグストアもごく普通に営業している相馬市内での仕事を終えて、原発の被害ばかりがクローズアップされるものの、この福島の海岸線も当然津波の被害に遭っているはずだと、復興状況を確認しに海の方に車を走らせる。

 船の残骸や車などがさび付いて山になっているという風景は、もうどこにもないが、そこにあった町の様子をとどめるのは、雑草が生い茂る家屋の基礎部分のコンクリートだけ。
車のナビが「およそ300メートル先を左折してください」と指示するが、その遙か手前からあるはずの道がすっかり無くなっていたり、復旧作業のダンプ専用路になっていたりする。

 ナビが間抜けな声で、「この先、踏切があります。ご注意ください」と発する。
踏切の黄色と黒の縞々模様は見えるのだが、
線路がない。
河原の堤防みたいに土盛りの道が続いていて、脇には
「開通105年 直線日本一」という小さな看板が立っていたりする。


線路はきれいにすっぱり切り取られていて、線路が無いので、当然遮断機もない。
バックには津波の通り道だったのだろう「塩害処理作業地」のぼりだけがぽつんとはためいているが、耕作地になるような気配は見えない荒野がある。
 
なんだか、腕のない案山子のようだ。

 JR常磐線の相馬から浜吉田の間は、ネット検索して地図を見ると、赤い×印が線路の表示の白黒の線の上にホッチキスの針みたいに貼り付けられている。

 その南下する常磐線の現在の所一番南の駅は「浜吉田」
浜吉田の駅の方向を見るとこんな風。

浜吉田駅前にある真新しい石碑。「波来の地」
「大津波がたどり着いた果て、波来(はらい)の地」と刻まれ、
「災いをはらい、復興支援者への敬意をはらい、永久に注意をはらい続けることを願って、ここに刻む」とある。

この日、同じ福島県でも内陸側の東北自動車道の脇の町を通ると、一面桃の花が咲いていた。