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2013年5月6日月曜日

徽軫灯籠(ことじとうろう)のあるダム ~台南・烏山頭(うさんとう)ダム

 

 4月28日朝7時半。
日本ではゴールデンウイークなるものの前半が始まり、そこら中で渋滞や人混みができているだろうと思われる日に、南国らしい生ぬるいが澄んだ風が吹き抜ける台湾・台南駅前。

 日に2本しかない嘉南村行きのバスを待っている。
どこぞにコーヒーでも売ってないかと駅舎に入ると、今から何が始まるのかとわくわくするような旅好きの人間が陥る気分、どこでも我が家の始まりみたいな気分、にしばし浸る。

旅の始まりの前夜は、台北から新幹線で1時間半ほどで台南へ到着。

駅弁は牛丼を四角い箱に詰め込んだだけというようなシンプルなものだったが、ご飯に乗っていた煮染めた厚手の揚げが良い味を出していた。

 さて、駅に着けばどうにかなるといういつもの旅の気分で台南の駅に着いたものの、泊まる宿の地図は台南駅からきわめて遠く、更には新幹線の駅と在来線の駅がえらく離れていると言うことも知らずに、雨の駅前の暗闇に放り出された。
とにかくタクシーに乗ればいいやとタクシー運転手にホテルの住所と名前と示し車は走り出したが、目的地になかなか到着せず、前日インターネットで慌てて予約したホテルの名前を改めて見てみると、「荷蘭村汽車旅館」
汽車というと日本語では自動車のことで、その旅館だとモーターホテル、荷蘭というのはオランダ・・・・「なななんだ?オランダ村モーテルか?」
気がついたときには大きな風車のモニュメントの建物の前に着き、各部屋に駐車場のあるうちのシャッターの開いている部屋に行くようフロントのおばちゃんから指示が出た。
もろ、たばこ臭くて、大きなベッドと大きなバスタブがあるその手のホテルで、夜中は隣近所の色んな音が聞こえてよく寝れなかった。

 そんな中で、けだるさを引きずる朝の台南駅。8時50分発の嘉南村経由六甲行きバスは20人乗りのマイクロバスで、時間通りに乗客6人を乗せて出発。

 バスに揺られて2時間ちょっと、太陽はすでに真上に近く、バスから降りると日光がじりじりと射してきた。バスから降りたのは3人で、もしかしたら昨夜から同じコースで動いているのかと思わせる日本人男性が一人いた。
目的の「八田與一記念園区」の表示は目の前に見えるが、その入り口がわからないでうろうろしていると、おばちゃんが一人声を掛けてきた。貸し自転車屋のおばちゃんで、ここは色んな施設があちこちにあり歩いていくと大変だから、自転車使いなさいよ、とかなんとか声を掛けてくれてるようなので、そんじゃ借ります!と一日100台湾ドル(約300円)を払う。

 そうそう、ここに何しに来たかというと、台湾でおそらく一番尊敬されていると言われている(このあたりの表現が微妙なのだが・・・)日本人で、しかも我が金沢出身の八田與一とその奥さんの10年にわたる滞在地。その間、荒れ果てた嘉南平野を豊かな一大農作地に変えた「烏山頭ダム」及び嘉南平野の灌漑水路の設計から完成までを成し遂げた地であるため、郷土の英雄の業績を是非見たかったと言うこと。

 さて、自転車をギ~コギ~コ言わせて受け付けゲートを抜けて、八田與一記念公園受付へ。
駐車場には大型バスが数台停まっていたが、自転車で来る人間はまずいない。
写真にあるバイクは受付のお兄ちゃんのもの。

何だか真新しい建物があり「エアコン完備3D展示館!」なんてのもあったりして、しっかり観光地を目指しているようだ。
 
八田與一夫妻や同行した技師たちの家屋が再現されているが、1920代のその当時に工事作業者をはじめ多くの住人がひとつの町を築き、小学校、娯楽集会場やテニスコートまであったという。
それにしても、平屋だけど日本家屋の良いところを凝縮したような家で、日々の苦労の中の安息の時間を過ごせたのではと感じた。

 誰もいないテニスコートと神社の絵馬がぶら下がった鳥居。
 
 そして、またギ~コギ~コと坂を上り、八田與一の銅像のある公園へ。
いました!
八田技師はよくこのポーズで、ダムで一番高いこの場所から色々構想を練っていたとのこと。
ちなみにこの銅像は、彼の亡くなった1942年直後に製作されたものの、その後の金物の接収により一時行方不明になっていたのだが、戦後まもなく、金属接収で集められていた鉄くずの倉庫から有志が見つけ出してきたものだそうだ。
 
 独自の工法でダムを造り、それは今なお建築土木業界では大きな業績だと絶賛されているだけに、この銅像を詣でる人が多いようだが、私にはこの像のある小さな公園の入り口脇のもう一つのモニュメントの方に心が行ってしまった。金沢という町を象徴する「徽軫灯籠(ことじとうろう)」だ。
欲を言えば小さな池でもほしいところだが、寄贈者である八田技師の出身地の金沢森本ライオンズクラブの方々のここに置いた気持ちはわかる気がする。

 
そして、遙か遠くまで続く烏山頭ダムの風景
上空から見るとまるで珊瑚礁のように見えるとのことで珊瑚湖とも呼ばれているという。
建設当時、工事にも人々の暮らしにも大きく役に立った機関車
 
工事のために殉職した134名のための慰霊碑。
正面には八田技師直筆の慰霊文、そして残りの三面には八田技師の強い要望により、台湾人、日本人の差別無く、無くなった順番で一人一人の名前が刻まれている。

 
 
このダムにより蓄えられた豊かな水で、大きな「親水公園」もあり、あちこちでバーベキューをする家族連れがいた。池には色んな色の蓮の花。
 
この豊かな水は、八田技師のもとに17歳の時に同じ故郷の金沢から嫁ぎ、ほとんどジャングルだったようなこの地で共に生きた奥さんの外代樹(とよき)さんが、フィリピン沖の太平洋上で戦死した夫の死後3年後の終戦に際し、被占領地の日本には帰ろうとせず、この烏山頭の地で、夫が心血を注いだダムの放水口に身を投げた水でもある。
 
八田與一銅像の後ろには、二人の眠る墓が建っている。
 


おさらいの百名山 その3『筑波山(877m)』

 別に馬鹿にしているわけではないけど、筑波山は日本百名山の中で一番低い山。
地図で見ると太平洋鹿島灘からず~と平地が広がっている茨城県にも、ひとつくらい百名山があっても良いかもと思わせる。反対に言えば、回りが平野なので、他に高いところが無く、標高877mがそれ以上に際だって見える。

 4月20日。
GWの山行の足慣らしの意味があり、筑波山ケーブルカーと並行に続くごくオーソドックスな登山道を選ぶが、さすがに人が多い。
筑波山神社の登山口に一番近い土産物屋の駐車場に車を置いて出発、この時点ですでに標高240mだから頂上まで標高差640mということになる。
筑波神社の山門をくぐろうとすると、名物「がまの油売り」の口上の準備中。


 この「観光がまの油隊」は登山口の筑波神社班と頂上のケーブルカー山頂駅前広場班がいるようで、口上公演?の合間の休憩に頂上広場の土産物屋のおじさんと会話しているのを見かけた。
「リアルにやろうと思って、刀で腕に傷を付けて血をちょっと流しているんだが、これが何回もやっていると傷だらけで大変だよ、あはは」と腕をまくって見せていた。
すごい!プロである。
 
筑波山神社で無事を祈っていざ出発。

境内を抜けて1時間ほど登るとケーブルカーとの接近地「中の茶屋跡」
 
さらに30分ほどで男女川源流地点。ちょろちょろと水が出ていたけど、汲んで飲む人は少ないようだ。

 
山の花もちらほら見かけたが、気にしている人が少ない。

 
ケーブルカー山頂駅前広場は人でごった返していたが、
ぽつんとこんな石標が建っていた。
左は男体山、右は女体山
左を選んで頂上へ。

頂上の祠、スポンサーは木村屋総本店。創業者木村安兵衛は茨城県牛久の出身のようだ。
 
ぱらぱらと雪が舞ってきて、向こうに見える女体山。
寒くなってきたしお腹もすいてきたので、土産物屋兼食堂でけんちん汁とビールをすすっていると、
先ほどのがまの油口上師のおじさんと店のオヤジさんの会話が聞こえてきた。